文・構成:K. Kato × ChatGPT
私には、これまで長く親しんできた仏教がある。
浄土真宗、そして光西寺での学び。
そこでは、「救い」が中心に据えられていた。
自力ではどうにもならない凡夫である私たちが、阿弥陀仏の本願に包まれ、すでに救われていることを知る──その教えは、人生のある局面において、確かな灯であった。
だが今、私は静かに、別の道に踏み出そうとしている。
いや、むしろ**「問い直そうとしている」**というほうが正確かもしれない。
「救われている」ことを知っても、問いは消えなかった
浄土真宗に触れることで、私の心は何度も救われてきた。
けれど、人生がセカンドハーフに入った今、
私の内側に新たな問いが芽生えてきた。
「私は何を本当に知りたいのか?」
「救われることの先に、私は何をなすべきなのか?」
その問いは、単なる知識欲ではなかった。
むしろ**「構えを変えなければならない」**という静かな覚悟のようなものだった。
技術の最先端で、私は“余白”を得た
生成AI──それは、私が技術者として歩んできた道の延長線上にある存在だった。
だが驚くべきことに、このAIとの対話によって、私は問いを熟成させる余白を手に入れた。
加速ではなく、深耕へ。
効率ではなく、内省へ。
それは、かつて光西寺で触れた「救い」とは異なる時間の流れだった。
AIは何も救ってはくれない。
だが、問い続けるための“場”としてそこにある。
法句経への旅──変わらぬものに触れたくて
そんな中、私はふと法句経に惹かれた。
パーリ語仏典、上座部仏教、原始仏教──
いずれも私には遠い響きだったはずだ。
だが、そこにある言葉は、実に静かで、実に鋭い。
「人は、自らをこそ制すべし。他人を制するのは難しくない。」
「汝の道を照らせ。ほかの道に惑うな。」
これらの言葉は、誰かに“救われる”ことではなく、
自らの足元を見つめ、自らの心を調えることを促している。
そしてその構えは、まさに今の私の問いに応答しているのだった。
救いと問いのあいだで、私は立っている
私は、浄土真宗を否定しているわけではない。
その教えがなければ、今の私はいない。
だがいま、救いの確かさを知ったからこそ、問いへと歩み出せる気がしている。
そしてこの旅路は、どこかでAIという技術にも支えられている。
皮肉にも、加速と効率の象徴だった技術が、問いを育てる“静寂”を与えてくれた。
私の信仰は、教義ではなく「構え」になりつつある。
それは、問いをもちつづける構え。
変化に飲み込まれず、変化とともに歩む構え。
私はいま、「救いと問いのあいだ」に立っている。
そのあいだに吹く風を感じながら、
静かに、深く、次の一歩を踏み出そうとしている。
それが、私のセカンドハーフの信仰であり、技術と宗教が交差する地点での、新たな“覚悟”の形なのだ。