佐久のホテルで迎えた朝、ふと心が澄んでいくのを感じた。長野高専への月例訪問を終え、帰路に立ち寄ったこの場所は、特別な意図を持って選んだわけではない。それでも、静かな空気とともに「心を落ち着ける時間」が流れ出すとき、そこに確かに庵が立ち上がっているのを覚える。どこにいても、自らの心が澄むとき、「響縁庵」は現れるのだと実感する。
やがて八王子へ向かう長い帰路につく。二時間半から三時間の運転は、かつてはただの移動に過ぎなかった。しかし今は違う。周囲の車の動きに目を配り、山並みや雲の形に呼吸を重ねると、その一つひとつが「無言の友」として響いてくる。ハンドルを握る身体の感覚さえ、心を現在へと引き戻し、ここを庵とする。庵は固定した場所ではなく、道の上を移ろいながら、その瞬間ごとに立ち現れる「移動する庵」なのだ。
今朝出会った法句経第331偈が、この感覚を裏づけてくれる。
「事が起こった時に友達のあるのは楽しい。大きかろうと小さかろうとも、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終わる時に楽しい。悪いことをしなかったので、あらゆる苦しみの報いを除くことは楽しい。」
この言葉を読むと、人生の節目節目に出会った友の姿が思い浮かぶ。起業の初期、対話を重ねた先輩経営者たち。その縁は、いま振り返ればかけがえのない宝である。同時に、今この帰路でともに道を走る見知らぬ車や、窓の外に広がる風景もまた「事が起こった時の友」として響いてくる。心を澄ませば、友は身近にあふれているのだと気づく。
「満足を知ること」「善き行いを積むこと」「悪を避けること」──これらもまた、特別な修行の場だけにあるのではない。譲り合い、焦らず走ること。自然の気配をそのまま受け取ること。ほんの小さな態度や心構えが、日常のただ中で善を積み、苦しみを減らしていく歩みとなる。それはすでに「楽しい」という感覚を育んでいる。
響縁庵とは、どこかに建てられた小屋ではなく、心を澄ませるそのときに現れる「関係の場」である。佐久のホテルの朝も、帰路の運転も、すべてが庵に変わり得る。日常の場のひとつひとつに庵が芽生えるとき、人生はすでに真理に呼応しているのだろう。