文・構成:K.Kato x ChatGPT
今朝出会った法句経第353偈には、次のようにある。
「我は全てに打ち勝ち、全てを知り、あらゆる事柄に関して汚されていない。
全てを捨てて、愛欲は尽きたので、心は解脱している。
自ら悟ったのであって、誰を師と呼ぼうか。」
強い口調で語られるこの偈は、ブッダ自身の覚りを示す言葉とされる。私はこの境地には到底至っていないと感じる一方で、確かにそこへ近づこうと歩みを進めている自分を見出した。とりわけ「解脱」という言葉を前にすると、単に俗世から離れることではなく、むしろ周囲との関わりの質を変えることが大切ではないかと感じる。
私にとって解脱とは、執着を薄めながらも、なお周囲の人びとに心配りを忘れない在り方だ。欲望や興味に翻弄される関わりから離れ、静かな関心と慈しみをもって社会と向き合う。その意味で、解脱は断絶ではなく「関わり直し」の道である。自らの内部に、周囲の社会を感じ取る場を育てることこそ、今の私の課題なのだと思う。
この視点を現代社会に敷き直せば、解脱は次のように理解できる。第一に、情報や欲望の渦から自由になること。SNSや経済競争の中で他者と絶えず比較する生き方から降り、自らの軸を取り戻すこと。第二に、関係性を所有や支配の次元から解き放ち、共鳴や響き合いの次元へと変えること。第三に、社会のただ中にいながらも、その関わりに呑み込まれない自由を保つことである。
日常の小さな選択を通じて、欲望に振り回されず、他者と共鳴し、自らの中に静かな場を育てる。これらは大きな悟りではないかもしれない。しかし、こうした実践の積み重ねこそが、現代社会における「解脱の道」を形づくっていくのではないか。