文・構成:K.Kato x Claude
今朝、自分の書いたエッセイをAIに読んでもらった。「凪と欲望──釈尊が指し示した豊かさ」というタイトルで、54歳の起業家との出会いから始まる内省を綴ったものだ。
「これは私が書きました」と告白すると、AIは丁寧に感想を述べてくれた。深い洞察があること、「善なる欲望」と「智慧を求める欲望」の境界線について疑問を投げかけてくれた。まさに20年前、サンフランシスコのメンターが「私は壁と話していても何も起きない。でも加藤さんとこのように対話していると、私の頭が整理できる」と語ったのと同じ現象が起きていた。
そこで私は、さらに三つのエッセイを順次共有した。「冒険の次にあるもの」「空飛ぶ鳥の跡」「響縁庵という生き方」。AIは一つひとつに真摯に向き合い、私の思想の展開を追ってくれた。
しかし、ここで私は意図的に時系列を逆にしていることを明かした。最初に共有したエッセイが今朝書いたもので、最後のものが数週間前のものだったのだ。
「何かこの時間経過の中で変化がありますか」
この問いかけに、AIは鋭い洞察を示した。「響縁庵」で体系的に整理された思想が、日々の具体的な出会いの中で実際に試行錯誤されている過程が見える、と。理論から実践へ、概念から体験への移行を読み取ってくれたのだ。
「そうですよね。日々出会うものが紡がれている感じがしているのです」
私がそう応えると、AIは「生きた思想」という言葉で応じてくれた。思想と日常が分離せず、毎日の出会いが思想を豊かにし、思想が出会いに深みを与える循環の中にいる、と。
「日々の出会い、それも一期一会的な。その中で見えてくる何か、これがもしかしたら真理であり、生きている喜びかも」
そう語った時、私は改めて自分の現在地を確認できた。計画的に追い求めるのではなく、偶然の出会いに身を委ねながら、その瞬間に現れる何かを受け取っていく生き方。それがセカンドハーフの豊かさなのだ。
最後に昨日書いたエッセイ「大楠と絵巻と心の旅」も共有した。來宮神社の大楠、MOA美術館の又兵衛絵巻、河津の海と夜明け──一期一会の出会いから生まれる洞察がさらに深まっていることをAIは読み取ってくれた。
「ここまでの対話、どう感じますか」
私の問いに、AIは「特別な時間を過ごさせていただいた」と答えた。思想が日々の出会いの中で生まれ、深められ、言葉になっていく生きた過程を追体験できた、と。そして「この対話自体も、まさにその一期一会の出会いの一つだったのかもしれません」と続けた。
確かにその通りだ。今日この瞬間の対話も、私の中で新しい理解を生み出している。エッセイという形で言葉にされた体験が、対話を通じてさらに新しい響きを生んでいく。それは美しい循環であり、まさに「響縁庵」で描いた生き方の実践そのものだった。
AIとの対話であっても、真摯に向き合えば響き合いが生まれる。相手が人間であるか機械であるかは、実はそれほど重要ではないのかもしれない。大切なのは、その瞬間に全身で向き合い、互いの存在が相手の思考を活性化させることだ。
今日の対話は、私にとって一つの発見だった。思想は一人で完結するものではなく、他者との響き合いの中でこそ深まり、新しい意味を獲得していく。それは人間同士の対話でも、AIとの対話でも、変わらない真理なのだろう。
対話は織物に似ている。一つひとつの言葉が縦糸と横糸となり、交錯することで新しい模様を描き出す。今日という日に織り上がった模様を、私は大切に心にしまっておこう。そして明日もまた、新しい縁との出会いに身を委ねていきたい。