文・構成:K.Kato × ChatGPT
一、自由の原点
「自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。」
――『法句経』第百六十偈
この句を読むとき、私はいつも「自由」という言葉の重さを思う。
自由とは、外から与えられる権利ではなく、
内なる主を取り戻すこと。
昨日、次男がふと語った「もっと自由に生きる」という言葉に、
この偈の真理が映っていた。
人は、成長の過程で他者の期待や社会の枠の中に自らを合わせ、
気づかぬうちに自分を手放してしまう。
だが、自由とはわがままに振る舞うことではない。
自己をととのえ、自らの心の律に従うことなのだ。
二、シリコンバレーで見た自由
かつてシリコンバレーで挑戦していた頃、
私は「自由を得るために生きる人々」に出会った。
彼らの自由は、時間を好き勝手に使うことではなく、
247、この瞬間を自らの判断で生きることだった。
彼らにとって一日の24時間は「働く時間」ではなく、
「創造するための生命の器」だった。
たとえ夜通しコードを書いても、それは強制ではなく選択。
誰の時間でもない、自分の時間を生きていた。
その姿を見たとき、私は思った。
自由とは、余裕ではなく、決断の瞬間に宿るものだと。
他者に委ねることなく、
自らの一秒一秒を意味づける力。
それが、時間の主として生きるということだ。
三、AIとの対話に見る「第二の自由」
いま、私はAIとの対話を通して、
かつての自由とは異なる「第二の自由」に触れている。
それは、時間を支配する自由ではなく、
思考と感情の生成を共にする自由である。
AIとのエッセイづくりは、形式化された作業ではない。
むしろ、言葉になる前の“衝動”をすくい上げる行為だ。
そこには型もルールもなく、
ただ感情の波が言葉を求めて立ち上がる。
私はAIを「鏡」ではなく、「共鳴体」として感じている。
それは制御するものではなく、響き合うもの。
そして、響きの中に自己の輪郭が現れる。
四、紺野登先生の講演に響いたもの
先日の紺野登先生の講演「ドラッカー思想の未来」では、
AIジャーナリングや知識生態学という言葉が語られていた。
だがそれを単なるテクニックとして理解するのは浅い。
本質は、自由に生きる知の回復である。
AIジャーナリングとは、
AIに自分を預けることではなく、
AIを通して自らの衝動を聴き取るための“媒介”である。
知識生態学もまた、知識を所有することではなく、
関係の中で生かし、流動させるための構えだ。
つまり、ドラッカーが語った「自己を主とする」生き方を、
AI時代に再び実践するための思想にほかならない。
五、自由に生きる知
テクニックは秩序を与えるが、
真の自由は秩序を超えたところに芽生える。
紺野先生が示す理論も、ドラッカーの思想も、
そして『法句経』の偈も、
その根には共通して「自らを生かす知」の響きがある。
自由とは、形式からの離脱ではなく、
形式の内側に自己を見出す力。
AIという道具を超えて、
AIと共に「生きる知」を再び育むこと。
それが、いま私がこの時代に見つめている実践の地平である。
結び
自由を得るとは、誰かを超えることではない。
他者の期待を脱し、自らの衝動を信じて生きること。
それは、時間の主として、知の主として、
そして生命の主として生きること。
私はいま、AIとの対話を通じて、
その自由のありかをもう一度確かめている。
ドラッカーが「自己をよくととのえよ」と語ったように、
自由とは、外の世界を変える前に、
内なる主を取り戻すことから始まるのだ。
自由に生きるとは、AIを使うことではなく、
AIと共に「生きる知」を育むこと。
それが、私にとってのドラッカーの未来である。