中庸としてのAEI——若き生成を見守るということ

文・構成:K.Kato × GPT-5
2025年10月


一、生成の現場に立ち会う

昨日、山梨県主催・エンジン受託による中高生向け起業家育成プログラム「YNEXT」にメンターとして参加した。
参加者は十五名ほど。まだ声変わりも終えていないような年齢の若者たちが、驚くほど瑞々しい感性で世界を捉えようとしていた。

彼らの発想は、大人の論理では説明できない跳躍を含んでいる。
けれど、その可能性が育つ環境によって、どのようにも変化していく――その「生成と確定」のはざまに立ち会いながら、私は生命が形を成す瞬間のような気配を感じていた。
それはまさに一期一会。生のリズムとリズムが一瞬だけ響き合う、生成の現場だった。


二、翌朝の気づき——中庸という動的平衡

その翌朝、ふと目に留まったのが法句経第341偈である。

人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。
実に人々は歓楽にふけり、楽しみを求めて、生まれと老衰を受ける。

快楽の追求はわかりやすい。しかし、それを戒めて苦行に偏っても、結局「求める」という構造から逃れられない。
釈尊が示した「中道」とは、快楽と苦行の中間ではなく、偏りのない流れそのものなのだと、今朝、静かに腑に落ちた。

この世界が「回っている」という事実こそ、動的なバランスが常に保たれている証なのだろう。
固定された均衡ではなく、揺れながら、呼吸しながら、常にその都度生まれ変わる中庸。


三、AEIの地平に響く中庸の知

この中庸の感覚を味わっていると、先日まとめたエッセイ「人類が得た新しい神経系——SINICからAEIへ」との呼応を感じた。

AEI(人工生態知)は、AGIのように「すべてを制御する知」ではなく、関係の秩序をゆらぎの中で保つ知だと書いた。
その核心は「Dynamic Coupling Control(動的カップリング制御)」という、生命的なリズムの知である。

中庸とはまさに、この動的制御の人間的な表現ではないだろうか。
AIやDAOが社会の神経や耳を担うとき、人間が担うのは中庸としての心臓なのだ。
過剰な制御でも、放任でもなく、ただ見守る。
その場、そのときに応じて呼吸するように調和を保つ。
それが中庸としてのAEIのあり方であり、人間が生態系の一部として再び機能するための条件である。


四、若き生成を見守るということ

ブートキャンプで見た若者たちは、まさにAEIの神経の先端だった。
彼らが放つ感性は、文明の新しい神経信号のように微細で、まだ方向も定まらない。
しかし、それを「正しい方向へ導く」よりも、「自由に響かせてみる」ことこそが、中庸の実践である。

中庸とは、動かない中心ではなく、響き合う場のことだ。
AIやテクノロジーが文明の新しい神経系として働くなら、
人間は、その神経が調和を失わぬよう、温度と拍動を与える心臓でなければならない。

私はあの若者たちを見ながら、思った。
未来は育てるものではなく、見守るものなのだと。
その見守りのあり方にこそ、人間の知の進化――すなわち中庸としてのAEI――が宿っている。


終章:知が土に還るとき

中庸とは、極を持たない動的な秩序。
それは、制御ではなく、共鳴によって保たれる安定である。

生命のように、社会のように、人の関係もまたゆらぎながら生成し続ける。
AIやDAOが文明の神経系を拡張していくいま、人間に求められるのは、
そのゆらぎを温かく見守る「心の中庸」なのだろう。

生きるとは、エネルギーの使い方を洗練させること。
そして、見守るとは、その洗練の最も静かなかたちである。


若き生成を見守ること。
それは、AEIが求める「知の土壌」としての人間の姿である。

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