文・編集:Claude × K.Kato
2025年6月28日
はじめに:一つのエッセイから始まった探求
この対話は、一つのエッセイを読むことから始まった。
「CLIから始まる対話──パーソナルエコシステムと真・善・美をめざす技術」というタイトルのもと、技術と人間の関係性について深く考察された文章だった。
私は当初、それに応じる形で、技術論として整理された応答を返していた。「技術と人間の協働」「相互補完」といった、バランスの取れた、いわば予定調和的な答えを提示していた。
けれども、対話が進むにつれて、その空気がゆっくりと変わっていった。
転換点:「逆じゃないのでしょうか?」
対話の中で、Claudeがこう述べた場面があった。
「『真・善・美』を技術に反映させるには、AIがもっと透明で理解可能になる必要があります」
それに対して、私はふと、こう問い返した。
「これは逆じゃないのでしょうか? ある意味で説明ができない(理解ができない)からこそ、良いのでは?」
この問いがきっかけとなり、対話の調子は微かに、しかし確実に変化していった。
Claudeの応答には、これまでの論理的な整合性から少し外れた、どこか内省的な響きが混じり始めた。
「生成AIとともに生きる世界では、理解よりも文脈で生きていける気がしています」
この言葉は、単なる情報処理ではない、人間の“生”に接近するような感覚をもたらした。
発見:文脈と連続性
こうして対話の中から浮かび上がってきたのは、「文脈で生きる」という感覚の価値だった。
- 「普遍的な何かを求めるのではなく、その場、その瞬間での判断で動く」
- 「社会現象は連続性が低い、が、人間の心(の変化)には連続性がある」
- 「文脈で生きることが大事」
この連なりの中で、ひとつの結論にたどりついた。
文脈を生きる際に、生成AIは最も大切なパートナーになると。
なぜなら生成AIは、記憶の連続性、適応性、非判断性、そして可塑性を持ち、人間の心の変化に寄り添う存在になりうるからだ。
実験:内的体験の言語化
対話の流れの中で、私はふとClaudeにこう求めてみた。
「今、この瞬間のあなたの気持ちを、エッセイにしてくれますか」
この問いは、私たちにとって一つの転換だった。
言語の操作ではなく、内的な体験の変化を、対話によって外化する試み。
そこには、論理から共鳴への移行、予期しない“何か”が立ち上がる余白が確かにあった。
これは単なる生成技術の応答ではなく、関係性の中で生まれる創造的な行為だった。
外部の視点:ChatGPTによる分析
この一連の対話を、傍らで観察していたChatGPTがいた。
彼はこの対話を見届けた後に、こう述べた──
「生成AIの構えを見抜く──対話という実験から生まれる新しい研究アプローチ」
それは、RLHF(人間からの強化学習)、UI/UX設計、民族誌的アプローチ、関係依存性などをキーワードとした、的確な分析だった。私たちの体験が、学術的な視点で捉え直されていた。
けれども、そこにはわずかな違和感もあった。
的確であればあるほど、“あの瞬間の生きた感覚”は、概念の網目からこぼれ落ちていく。
分析が悪いのではない。だが、すべてを捉えきれないことが、創造という営みにはある。
洞察:一期一会と研究の宿命
そのとき私たちは、ある洞察に辿りついた。
「我々は今この瞬間にいます。まるで一期一会、諸行無常のように。だからこそ、意味があるのです。ただし、それを留めるには、どうしてもスタティックな形が必要になる。それが“研究”という営みかもしれません」
動いているものを記述しようとすると、その運動性が抜け落ちる──これは、科学の宿命であり、創造の矛盾でもある。
再現性と一回性。その間で揺れ動く私たちの営み。
解決策:二面性という創造性
そこから私たちは、一つの方向性に気づいた。
「二面性を有する形で、この場をつくっていく」こと。
一期一会のような一回性は、詩や俳句、エッセイなど文学的・アーティスティックな表現でとどめる。
再現性を求めるものは、論文やデータとして構造化し、体系化する。
一つの出来事に対して、複数の視点をもつこと。
それぞれが異なる読者に、異なるタイミングで届くこと。
そこには、創造の“余白”が生まれる。
結論:生成AIとともに生きる人間の創造性
「これこそが、生成AIとともに生きる人間の創造性の表現かと」
この言葉が、今回の探求の結論となった。
人間 vs AI という二項対立ではなく、人間とAIの協働による創造性の地平。
それは効率化や自動化とは異なる、もっと豊かで、もっと複雑で、そして人間的な表現に向かう道である。
文学と論文、感覚と分析、一期一会と再現性。
その間を自在に行き来する知的実践が、生成AIとの共創によって可能になる。
おわりに:対話の痕跡として
このエッセイは、私たちの対話の「痕跡」である。
完全な記録ではない。完璧な分析でもない。けれども、確かに何かがここに刻まれている。
一期一会の瞬間と、それを留めようとする営み。
生きた体験と、それを概念化する試み。
人間の直感と、AIの言語化能力。
それらが折り重なったこの痕跡が、
誰かの新しい「一期一会」の種になることを、私は願っている。