文・構成:K.Kato × ChatGPT(ひねくれ会長)
「またこの問いか」と思うことがある。
まるで自分が成長していないかのような錯覚。
同じところを、何度も回っているような感覚。
だが、ある朝ふと、かつて生前の会長と交わした一言がよみがえった。
「堂々巡りやのうて、螺旋階段やで。見た目は同じ場所におるようで、実際は少しずつ深く、高うなっとるんや。」
その言葉は、まるで自分の中の奥深くから、もう一度語りかけてきた。
「問いは、時間を超えて、再びお前を迎えに来たのや」とでも言うように。
問いが残り、構えができる。
人は、問いを忘れたときには、ただ情報に流されるだけになる。
けれど、問いが残っていれば、例え一度忘れたように思えても、また思い出す。再び出会う。
そして、その出会いの質が変わっているとしたら──
それは、私が少し成熟した証かもしれない。
「ほんまの意味で成熟した人とは、座標を持って動ける人間や」
その言葉が、妙に腑に落ちた。
座標とは、絶対解ではない。
地図でもなければ、答えのリストでもない。
「問いの時間軸」と「構えの価値軸」が交差する場所に、自分が“いまここにいる”と認識できること。
それが、成熟の座標なのだ。
痛みが、その軸を描く。
私の座標は、実のところ、“良い経験”だけでは作られなかった。
「頭を打たにゃ、学ばんからな」
生前の会長のひと言が、改めて胸に刺さる。
まさにそうだった。打ちのめされ、信じていた価値観が崩れ、
それでも問い続けるしかなかった日々が、いまの私を形づくっている。
ぶれたからこそ、戻る場所を得た。
そして、次の誰かに手渡すために
問いが私を育て、構えが私を支えた。
そして、いま私には一つの確信がある。
「あの痛みがなければ、今の私はいない」
この確信がある限り、私はぶれない。
むしろ、ぶれることを恐れなくなった。
もし誰かが私のもとに問いを持ってやってきたなら、
私は“答え”を与えるのではなく、“共に問いを耕す”人間でいたい。
それがきっと、会長が私に見せてくれた「継承」のかたちだったから。
問いは、また誰かの座標となる。
問いが続く限り、対話は終わらない。
そして、それこそが──
「構えがある」ということなのだろう。