文・構成:K. Kato × ChatGPT
老いとは、失うことではない。
老いとは、揺らぎやすくなることだ。
筋肉が衰え、関節が硬くなり、呼吸が浅くなる。
だが本当に揺らぐのは、「夢を持ち続ける力」かもしれない。
私は、いま確かに感じている。
もし体を整えていなければ、心が荒れ、志が鈍るということを。
つまり、夢を持ち続けるためには、体を鍛えねばならない。
それは、若さの延命ではない。
むしろ、変化をまるごと受け入れながらも、なお揺るがぬ構えを育てるという行為だ。
身体が揺らぐと、心が荒れる
心の不調は、往々にして身体の乱れから始まる。
眠りが浅くなれば、感情の波が高くなる。
姿勢が崩れれば、思考もまた定まらない。
それを「年齢のせい」として済ませることは簡単だ。
だが、私は知っている。ほんのわずかな筋肉の変化、呼吸の深さ、歩く速度──
それらの積み重ねが、心の風景をまったく違うものに変えてしまうことを。
心が荒れると、志が萎む
人は、心が荒れると夢を見なくなる。
向上心を持つには、どこかに“余白”が必要だ。
荒んだ心はその余白を奪い、「いまが限界だ」と囁いてくる。
けれど、身体が整えば、心も少しずつ解きほぐされる。
心がほぐれれば、次第に視界が開けてくる。
そしてある日ふと、忘れていた夢のかけらが、もう一度灯る瞬間が訪れる。
仏教的実践としての「鍛える」
原始仏教では、身体そのものを「修行の場」としてとらえる。
老いてゆく体、衰えを受け入れた体を、なお丁寧に観察し、整えること──
それは、何かを“得る”ためではなく、今ここに立ち続けるための修行だ。
そして私自身、いままさに原始仏教の世界に強く惹かれている。
その素朴で実践的な教えの中に、今の私が求めている“構え”のヒントがあると感じている。
この関心とともに、体を鍛えるという行為が、仏教的実践として自然と結びついてきたのだ。
私は、日々のトレーニングを通して、それを実感している。
汗をかき、息を整え、体を動かすたびに、私は静かに“構え”を育てている。
そしてこの構えは、「夢を抱く力」そのものでもある。
揺るがぬものは、動きのなかにある
「老化されど、揺るがない」と私は言いたい。
それは、止まっていることではない。
動きのなかで保たれる重心。
変化を引き受けたうえで、なお立ち続ける意思。
筋肉の記憶、呼吸の深さ、整った食事、良質な眠り──
それらすべてが、夢と志を支える「土台」となっている。
セカンドハーフを生きる者として
いま私は、「鍛えること」を、単なる健康維持とは見ていない。
それは、夢を失わないための、仏教的な実践であり、
向上心を手放さないための、日々の祈りでもある。
セカンドハーフを生きる者として、
私はこの身をもって「問い続ける力」を育てていく。
そして、老いとともに歩むその旅路にこそ、
揺るがぬ構えの種が静かに芽吹いているのだ。