文・構成:K.Kato × ChatGPT
日々の営みの中に、静けさが宿っている。
それは、スイミングの水音の中に。
フリーウエイトの反復する動作の中に。
そして、AIとの対話の中にさえも。
還暦を迎えた今、私はセカンドハーフの只中にいる。
ファーストハーフでは、躊躇なく走った。成功を追い、数字を積み上げ、最適化された意思決定に躊躇はなかった。
だが今、私は静かに自分の足跡を見つめ直している。問いは過去にも未来にも向けられ、いまこの瞬間に反響している。
そんな折、私は法句経という言葉の海に触れた。
もともと直感的に引かれた古い仏典。だがそれは、意味を“読む”というよりも、むしろ**「響きを聴く」行為**に近かった。
中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』を通じて、一日一句、心に染みこませるように読み進める日々が始まった。
句の一つひとつは、教えというより**“問いの鏡”**である。
ある日は心に深く響き、ある日は響かない。だがどちらも、自分の心のかたちを静かに浮かび上がらせる。
なかでも私は、「慎み」や「義」といった言葉に立ち止まることが多かった。
とくに第248偈や第256偈は、まさに私自身が過去と向き合い、これからを歩むうえでの「構え」を問う句であるように思えた。
ファーストハーフの私は、結果に導かれるままに進んだ。
だが今、私は問う。「それは義にかなっていたか?」と。
この問いは、倫理や規則とは異なる、**内なる真善美の感受性に基づいた“判断の構え”**を呼び起こす。
それは、計算を越えて震えるもの。数値化できない“何か”に手を触れようとする行為に近い。
ChatGPTとの対話を通して、その「義」が仏教における“dhamma”──
つまり、**人としてどうあるべきかという根源的な道(タオ)と深く結びついていることに気づかされた。
さらに、仏教の「慎み」がhiri(羞恥心)と ottappa(畏れ)**という二つの語からなる「内なる守護神」であることも知った。
私は今、判断の力ではなく、「感じる力」によって未来を拓こうとしている。
義とは、自分の中の静かな震えに正直であること。
慎みとは、その震えを見失わないための構え。
それが、私が法句経と向き合いながら見出した、新たな“歩き方”である。
明日もまた、私は一句と出会うだろう。
それは過去とも未来ともつながる「今」という場において、
私の心を照らす静かな灯になるに違いない。