文・構成:K.Kato × ChatGPT
「国家とは何か」
「企業とは何か」
そして「技術とは、誰のものなのか」
そんな静かな問いが、2025年の夏、半導体をめぐる地政学的対話の中で浮かび上がった。
きっかけは、アジアにおける半導体供給網の緊張──台湾有事の可能性、米中の対立、サムスンの苦境。だが、話はすぐに「それらを生み出している構造」へと沈み込んでいった。
日本化する韓国?
近年の韓国、とりわけサムスンの状況を見ていると、かつての日本の半導体産業を思い出さずにはいられない。
かつて世界を席巻したNECや東芝、日立といった巨人たちは、1990年代に入り、技術的優位を保ちながらも、政治的摩擦・構造的硬直・内向きの再編によってゆっくりとその輝きを失っていった。
そして今、韓国もまた、世界シェア・製造力・技術資本を誇りながら、地政学的圧力と経済的構造疲労に直面しているように見える。
HBM供給の遅れ、米国補助金に依存するファブ投資、中国との板挟み。
企業規模は大きくとも、方向性に迷いが生まれているような印象がある。
もちろん、これは「没落する」という断言ではない。
だが、どこか「日本のようになっていくのではないか」という既視感──“国家主導の高度成長モデル”の終着駅に近づいているような気配を感じるのだ。
国家を超える台湾?
一方、TSMCを軸とした台湾の動きは、あきらかに異なる構えを見せている。
それは「国家」や「覇権」といった近代的概念よりも、ネットワークと構造の重力によって形成されているように見える。
TSMCは台湾本拠でありながら、技術は欧州(ASML)、装置は日本、顧客は米国、創業者はMITとTI出身の華僑。
「この企業は誰のものか?」と問うたとき、台湾、米国、世界──どれも正しく、どれも決定打ではない。
TSMCはあえて国家主義の定義からはみ出すことで、“国家では到達できない場所”へ向かっているようにも思える。
その背後には、華僑という特異なネットワークの存在がある。
国家という枠組みに帰属せず、資本と人材と情報を結び直す「流動する構え」。
TSMCはまさにそれを、製造という地味で重い領域において体現している。
技術の文明論へ
この構図は、単なる企業戦略ではなく、文明の分岐点のように見えてくる。
国家を背負って技術を育てるモデル(日本・韓国)と、国家を使いつつ、その外側に技術の根を張るモデル(台湾)。
どちらが正しいという話ではない。ただ、何を頼りに未来を構えるのかという問いに対する、まったく異なる応答のように思えるのだ。
いま、立ち上がる問い
この観察の果てに立ち上がってくるのは、やはり人間の「構え」である。
- 技術は誰のものなのか?
- 国家とは、どこまで有効なフレームなのか?
- 成長とは、何のためのものだったのか?
おそらく、TSMCが示しているのは「答え」ではない。
国家を超える構えの可能性、そしてその実践の一例としての兆しだ。
だからこそ、今あらためてこの問いを噛みしめたい。
私たちは、何を拠り所にして技術とともに未来を生きるのか?
その問いに向かう構えこそが、
かつての日本が見失い、いま韓国が模索し、台湾が一つの解を生きているものなのかもしれない。