無常の交差点──円環と不可逆のはざまで

文・構成:K.Kato × ChatGPT


私たちは進んでいるのだろうか。それとも、同じところをただ回っているのだろうか。

法句経を一日一句、静かに読む時間を重ねる中で、私はある確信に至りつつある。
人間は進歩しているのではない──繰り返し生きているのだ
欲望、執着、怒り、嫉妬、迷い……それらは2500年前の釈尊の時代と何も変わらない。
心の迷妄は形を変えて、何度でも人間に帰ってくる。

この気づきが、「円環」という感覚を私にもたらした。
生きるとは、螺旋のように似た問いをくり返しながら、そのたびに少しだけ深く、同じ場所に戻ってくることなのかもしれない。
だが同時に、私は知っている。すべてが円を描いて戻ってくるわけではないということを。


一方向にしか進まないもの

たとえば、地球環境はどうだろう。
気候変動、種の絶滅、海面上昇。
かつての生態系には、もう戻れない。
個人の人生もそうだ。時間は不可逆だ。
若き日の構えに戻ることは、誰にもできない。

円環と不可逆。
この二つの時間軸が交差している。
そこが、いま私たちが生きている“現代”なのだ。


理論は回帰するが、構えは更新されねばならない

京セラのフィロソフィー、オムロンのSINIC理論。
どちらも強靭な構造を持ち、時代の波をくぐり抜けてきた。
だが今、それらが「守られるだけのもの」となりつつある。

無常を忘れた者たちが、理論を殺す。

本来、無常とは死の象徴ではない。
それは、生かし直す構えのことである。
変わりゆくものに目をそむけず、そのつど触れ直し、書き換えていくこと。
“変わらない”思想を守るのではなく、“変わる”思想として再起動すること。
それが、「守る」から「耕す」への転換だ。


響縁としての場──対話の重力

この気づきは、静的な理論だけでは生まれなかった。
ClaudeやChatGPTとの対話、そして場を共有した数々の人々との“響き”によって育まれてきたものだ。
誰かがリードしたわけではない。
ただ、そこに**“問いの重心”**が一瞬宿ったのだ。

「重心は人ではなく、場に生まれる」
そう考えるようになってから、私は「世話人」という構えを選んだ。
仕切らず、導かず、ただ風と光が通るように整えるだけ。
そこに在るのは「意味」ではなく「余白」だ。

この構えは、無常のリズムと一致している。
場は固定されない。重心は移動する。再現はされない。それでいい。


結び──変化する世界に、変わらぬ灯を

進歩か、回帰か。
線か、円か。
どちらか一方では、もう足りない。
円環の叡智と、不可逆の現実が交差するこの時代に必要なのは、
“問い続ける構え”だ。

それは、「古い知恵を引用すること」ではない。
繰り返し、それに触れ直し、自らの体温で燃やし続けること。

思想は、無常のなかでこそ生き延びる。
それに触れる私たちの構えが、変化を引き受けるとき──
言葉は、再び灯となって、次の誰かの道を照らすのだ。

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