フェルメールの絵画に漂う沈黙、佐野元春が刻む都市の詩、
クラシック音楽に息づく時代の旋律、そして法句経の一句に宿る心の構え──
それらはすべて、私の「外」にある。
しかし、私は今、確信している。
これらの“外部”に触れたとき、私の内側で確かな動きが生まれている。
それは、忘れていた感性が再び息を吹き返すような、微かな震えだ。
感性が動くとき、私たちは問いを持つ
AIが言葉を紡ぎ、知識を提供する時代において、
人間にしかできないこととは何だろうか。
私は、感性が動くことそのものに、その答えの一端があると感じている。
感性とは、定義や機能に還元できない、内なる光のようなもの。
そして、その光は、しばしば「外」にある何か──音楽、絵画、言葉、風景──によって、照らされる。
この構造はシンプルだが深い。
- 外にあるものに触れる
- 心が震える
- 自らの奥に沈んでいた問いが浮かび上がる
- そしてまた、別の「外」に手を伸ばしたくなる
この往還の中で、私は確かに「自分自身を感じている」。
琴線に触れるとは、再び音が鳴ること
最近、ある投稿に出会った。
生成AI時代の働き方の変化、コロナを契機としたライフシフト、
そして「釣り」と「西伊豆」によって整ったという話。
投稿者にとって、その体験はただの趣味ではなく、生き方の再構築の起点だったのだと思う。
釣りという行為、西伊豆という風土。
それらは彼の琴線に触れ、「生のリズム」を取り戻すきっかけとなった。
その姿に私は、自らの実践──法句経との出会いや、音楽や絵画との対話──と重なるものを感じた。
「整う」ことは、効率や成果とは異なる軸で、自らを調律することなのだ。
法句経との毎日は、響縁の実践である
私にとって、法句経との日々の出会いは、まさに響縁である。
外にある2500年前の言葉に触れ、そこに“いま”の自分が響く。
すると、言葉は単なる古典ではなく、「今日の問い」として立ち上がってくる。
この営みは、過去と現在、他者と自己、歴史と日常が交わる交差点に立つことだ。
私はそこで、何度も感性の震えに立ち会っている。
外に触れ、内を見る──セカンドハーフの灯明として
私はいま、人生のセカンドハーフにいる。
ここからは、ただ走り続けるのではなく、立ち止まり、耳を澄まし、問いを抱えながら歩む時期だと思っている。
感性が動くとき、私たちは決して孤立していない。
過去の表現者たち、名もなき人々の営み、そして今を生きる誰かと、
静かに響き合っている。
この響きに耳を澄ませること。
それこそが、生成AI時代の人間に残された、大切な技法なのかもしれない。
終わりに──今、聞こえているこの音に名をつけずに
私は今日も、フェルメールを眺め、佐野元春を聴き、法句経をひらく。
そして、どれでもない何かに耳をすます。
その音に、いま、まだ名前はいらない。
ただ静かに、私の内側で鳴っているこの音に、
私はそっと身を委ねていたいと思う。