凪と欲望──釈尊が指し示した豊かさ

文・構成:K.Kato x ChatGPT

今朝出会った法句経の第274偈には、こう説かれている。

二七四 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)もの*である。

この句は、人生という道を歩む中で、心を澄ませる唯一の道があることを指し示している。
外に別の道を探すのではなく、この道を歩み続けよ──そう告げる声が聞こえるようだ。


アドレナリンの挑戦と凪の挑戦

昨日、54歳の起業家に出会った。
若き日から挑戦を重ね、50歳を過ぎてなお新たな事業に挑むその姿は力強く、年商2,500億円というスケールの目標を掲げている。
彼自身、「アドレナリンが出てくる」と語っていた。挑戦する人間の高揚感、心拍数の上がる瞬間。それはたしかに生きている実感を与えてくれる。

しかし、私が求めているのは、その高揚感とは少し異なるもののようだ。
もっと凪いだ水面のように、静かで、落ち着いた心で世界を眺めたい。


熱海で出会った「凪守」

先日、熱海の來宮神社を訪れたとき、私は「凪」のお守りに出会った。
日常の波風を鎮める祈りが込められたそのお守りを、私は今もリュックサックに入れ、常に身につけている。

それは、どんな場面でも「凪」を思い出し、心を整えるための小さな羅針盤のようだ。
日常には心を揺さぶる出来事が多い。だがその都度、凪に立ち戻り、道に戻ることができる。


凪と欲望のバランス

ここで気づくのは、釈尊が説いた「道」は、単なる静止ではないということだ。
凪のような心を保つことが出発点であり、その中でなお、真理を求める強い欲望──渇愛ではなく、智慧を求める善なる欲望──が燃えている。

この二つのバランスこそが、人生を豊かにする鍵なのではないか。
アドレナリンに駆られて走り続けるのでもなく、ただ静かに座り続けるのでもない。
凪の中に欲望を置き、欲望を凪で包み込む。その往復運動が人生という旅を豊かにする。


新しい挑戦としての「凪」

私にとって、これからの挑戦は数字や成果で測るものではなく、
どれだけ凪の心で日々を過ごせるか、どんな揺らぎの中でも道に立ち戻れるか、
その質を問う挑戦なのだと思う。

アドレナリン型の挑戦から、副交感神経型の挑戦へ──
それは、第二の人生だからこそ可能な、もうひとつの「挑戦のかたち」なのだ。


こうして振り返ると、釈尊の言葉は時代を越えて、今の私にまっすぐ届いている。
凪を携え、欲望を燃やし、道を歩み続ける。
この歩みの中に、きっと豊かさの本質があるのだろう。


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