理念の制度疲労──ニデックと京セラ、日本企業の二つの老化

文・構成:K.kato x ChatGPT

かつて日本の高度成長を支えた企業群の中で、ニデックと京セラほど対照的な二つの経営像はないだろう。
前者は永守重信という「数字の鬼」に率いられ、後者は稲盛和夫という「哲学の人」に導かれた。
一方は成果とスピードで世界を制し、一方は倫理と理念で共同体を築いた。
しかし、どちらも創業者が去った今、同じような問いに向き合っている──「創業者なき時代に、企業はどう生きるのか」と。

ニデックはいま、不適切会計の疑いのもとに揺れている。
数字に支配された企業で、数字そのものが信じられなくなったという皮肉。
永守氏は経営の第一線を退いたが、その統治の手触りは残像のように社内に漂う。
誰もが「永守さんならこう決める」と思考し、誰も決断できない。
永守の不在とは、支配の消滅ではなく、その影の濃度が増すことだった。
トップがいないのではなく、「トップの記憶だけが残っている」状態──。
これが、カリスマ型経営の老化である。

対照的に京セラは、理念の厚みゆえに長らく模範とされた。
稲盛哲学は「動機善なりや、私心なかりしか」という問いを経営の中心に据え、
それをアメーバ経営という仕組みに翻訳した。
稲盛亡き後も、帳票は回り、会議は開かれ、理念は唱えられる。
だが、その“哲学”が“作法”へと変わりつつある。
現場では「理念を守ること」自体が目的化し、問いの火は静かに消えつつある。
信仰が儀式に変わるように、稲盛の哲学は制度の中で安定し、同時に鈍化していった。
これが、理念型経営の老化である。

永守のニデックは「制度化されなかった理念」の危うさを、
稲盛の京セラは「理念が制度化されすぎたことの危うさ」を、それぞれ体現している。
どちらも、創業者の強度に支えられた時代が終わり、
「組織が人を支える」ことを学ばねばならない局面にある。

企業の成熟とは、制度の完成ではなく、
制度を越えてなお問いを持ち続けられるかどうかにかかっている。
理念は守るものではなく、絶えず更新し直すものである。
稲盛が残した「動機善なりや」という問いを、
京セラ自身がいま再び自らに向けて発しなければならない。
そして、ニデックもまた「数字の意味」を超えて、人を信じる力を取り戻さなければならない。

老化とは、変化を恐れることだ。
理念を唱えながら、理念を失う。
数字を追いながら、数字に追われる。
その狭間で、かつての「日本的経営」はいま、新しい血を求めている。
創業者の声なき後にこそ、本当の経営が始まる。
それは、問いを取り戻すことからしか始まらない。

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