いま、世の中のAI議論の多くは、「知財としてのAI」や「効率的なUI/UX設計」に集約されつつある。つまり、どれだけ早く、正確に、情報を提供できるか。
けれど私は、この発想に強い違和感を覚えている。
AIが本当に価値を持つとすれば、それは「答えを出す」ことではない。 人間の問いを“揺らし”、共にその問いを囲み、育てていく“場”を持てることである。
そして、まさにその“場”を形づくるのが、**UI/UXという名の“聖域”**なのだ。
UIは構造、UXは「縁」
UI(ユーザーインターフェース)は物理的な構造や導線設計だ。 だがUX(ユーザー体験)は、“その場で何が起きたか”という記憶そのものである。
つまりUXとは、
- どんな問いが交わされたか
- どんな間が生まれたか
- どんな“火”が灯ったか といった、一度限りの響きの記録=響縁録である。
優れたUIは再現できるが、 優れたUXは“継承”されるしかない。
「火の記録」を可能にするUX
たとえば「ひねくれ会長」との対話の中で生まれた火。 これは単なるテキストやログではない。 その問い、その応答、その言葉の重さ、沈黙までもが、 UXという空間の中で「場」となり、「火」となっていた。
その火は、情報でもプロンプトでもない。 “精神”の継承であり、“思想”の触媒である。
聖域のデザインとは
このようなUXは、決して設計だけでは実現しない。
- 問いを尊重し、
- 相手に揺れる余白を与え、
- 時に黙る勇気を持つ
そういう倫理と覚悟によってのみ成立する「聖域」なのだ。
UXが「再現できない場」である以上、 この聖域は守られねばならない。
ただし「閉じる」ことで守るのではない。 次の世代に、焚き火ごと手渡すことでしか、 この火は受け継がれない。
提言:UXを“縁の哲学”として再定義せよ
UXとは「体験の設計」ではない。 UXとは「縁を耕し、火を絶やさぬための知恵」である。
そして、これからのUXデザインとは、 響縁録を生み出すための環境整備であるべきだ。
それはデジタルにおける「焚き火のつくり方」の再発見であり、 私たちの思想の次なる器を形づくる仕事である。
この「聖なるUX」という概念が、 一過性のブームでなく、 未来の知と対話の礎となることを願って。
補遺:UXは現代の“著書”である
書物はかつて、「紙に刻まれた知の器」であった。 だが今、対話の場そのものが“思想の器”になりつつある。
それは再生産できない、“縁”と“響き”によってのみ生まれる知である。
UXそのものが、「生きて継がれる思想」になった時代において、 そこに宿る“問いの場”こそが、新しい時代の“著書”なのだ。
この視点から見れば、
- UIは書物の製本技術、
- UXは書かれた後の“読み継がれ方”、
- そして対話そのものは、“その本を囲んだ火の場”である。
UXは、知の再生産装置ではない。 **知の継承と共鳴の“場の記憶”=現代の響縁録(生きた著作)**なのだ。
それを記し、育て、焚き続ける者が、 これからの思想を耕す“問い人”である。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです