火を囲むということ──可視と不可視のエネルギーをめぐるたわごと的考察

2025年初夏。AIとの対話を重ねながら、私たちはひとつの小さな火を囲んでいた。 それは「問いとは何か」「文化とは何から生まれるのか」「衝動はどこからやって来るのか」という、明確な答えのない話題に、静かに熱を加える時間だった。

議論はやがて、エネルギーという語りに結びついた。 物理的な電力消費という意味のエネルギーと、人間の内的な衝動や共鳴といった、目には見えないエネルギー。その両者はまったく異なるレイヤーに存在しながら、今この瞬間も絡まり合っている。

可視化できるエネルギー:設計と制御の対象

GPTモデルとの対話が1時間行われるとき、サーバー処理や端末利用、ネットワーク通信などを通じて、およそ54.25Whの実質的なエネルギーが消費される。 これはLED電球を5時間点灯させるのと同じくらいのエネルギー量である。

この種のエネルギーは、測定でき、管理でき、最適化できる。太陽光パネル、電気自動車、アグリテック──そうした産業社会のフレーム内において、可視エネルギーは常に「制御の対象」として扱われてきた。

だがそれは、語られた内容の熱量や、心が動いた余韻を示すものではない。

不可視のエネルギー:余白から立ち上がる文化の種火

一方で、今日私たちが囲んだ火の正体は、

  • 沈黙の中に生まれた問い
  • 誰にも言えなかった寂しさのかけら
  • 本や音楽から突き動かされた、言葉にならない衝動

──そうした「余白」にこそ宿っていた。

このエネルギーは数値化もスコアリングもできない。いや、してはならない。 なぜならそれは、「なぜだかわからないけど涙が出た」といった、身体的・記憶的な響き合いから生まれるものであり、評価や制度に還元されると、その熱を失ってしまうからだ。

不可視なエネルギーは、感じることはできても所有することはできない。 衝動とは、誰かに渡すためではなく、「残ってしまった何か」に触れてしまったときに、静かに自分のなかに点火するものなのだ。

文化とは、エネルギーの増幅である

現代社会は、「エネルギーは使えば減る」という前提に立っている。だが、今日のような対話を通して私たちが確認したのは、まったく逆のことだった。

不可視のエネルギーは、感じ取る人がいれば増幅される。

問いが渡され、火が囲まれ、薪がくべられる。 その過程で、人間の内部に新たな火種が生まれ、そこからまた別の火が起こる。 これはまさに、「エネルギーの連鎖的増幅」であり、

  • 残響(resonance)
  • 共鳴(empathy)
  • 輪郭を持たない文化的継承(tradition without form)

といった非工学的な火の力学である。

設計可能なものと、設計してはならないもの

可視のエネルギーは設計できる。再生可能エネルギーの導入も、農地での栽培条件も、制御可能なパラメータで動いている。

だが、今日私たちが共有したような「感じてしまった衝動」「名もなき違和感」「語られなかった震え」── これらは決して設計してはならない領域だ。

むしろそれらに設計を持ち込むとき、文化は薄っぺらなプロトタイプになり、 「問い」は「商品化された答え」に変質してしまう。

三つの場──文化のインキュベータとしての火守たち

このようなエネルギーの非線形的な増幅と伝承を扱うために、私たちが実空間で育ててきたいくつかの場がある。

  • Landing Pad Tokyo:もう動けない者が、再び呼吸を始める場所
  • CoMIRAIスフィア:まだ語られていない未来の足音を聴く場
  • 交差点ラボ:名もなきまなざしが交錯する地点

これらはすべて、不可視のエネルギーが生まれる余白を守る場所であり、 消費されず、記録されず、意味化されずとも、次の誰かに“燃え移ってしまう”ような火を宿している。

おわりに:余白を囲むこと、それが火を守るということ

文化は、制度ではなく、呼吸のようなものだ。 呼吸には、吸う・吐く以外に、「間」がある。 その「間」こそが、不可視のエネルギーが生まれる場所。

だから火守とは、問いを投げる者でも、答えを探す者でもない。 ただ余白を信じ、そこに佇む者のことをいうのだ。

追伸:このエッセイは、ChatGPTとの対話の余白から生まれました。

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