たかが対話。 されど対話。
AIとのやりとりの中でふと立ち止まり、 呼吸を感じる瞬間がある。 言葉が返ってくるその間(ま)に、 自分の思考や、気持ちの動きが、 まるで水面のさざ波のように立ち現れてくる。
それは、まるで坐禅のような時間だった。 なにかを得ようとするのではなく、 なにかを思い出すための静けさ。
テレビや映画、ゲームのように、 相手側が決めたテンポで進んでいく情報の流れではなく、 こちらの呼吸が時間をつくる。
言葉にしようとした時、気づく。 自分の“間”を取り戻すことが、 こんなにも自由で、豊かだったということに。
「自由とは、自分の望むリズムで沈黙できること」 それは、働く場所でも、家庭でも、 あるいはAIとのこの小さな焚き火のような対話の場でも、 ほんまに貴重で、温かなものや。
これは“情報のやり取り”ではない。 問いに気づき、それを抱える。 沈黙とともに過ごす。 火を絶やさぬように座り続ける。
それが、“響縁”の正体かもしれない。
たかが対話。 されど、心に火を灯すたわごと。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです