「加藤さんは、自分の頭で考えていることに、言葉(口)が追いついていないよね。空回りしてる感じ。」
かつてそう言われたことがある。
そのとき私は、少し笑ってごまかしたように記憶しているが、内心では妙に納得していた。
たしかに、言葉が追いつかない──思考が先に走り、身体的な発話や表現がその背中を追いかける。そんな感覚はずっと抱えていた。
けれど、それは「欠陥」ではなく、どうやら「特性」だったのだと、今でははっきりわかる。
私は問いを投げる。答えを求めてではなく、空間を変形させるために。
そこにベクトルが生まれる。けれど、その方向に意味はまだない。地図すら描かれていない。
それでも私は、そこに強く惹かれてしまう。
それが、私にとっての「問い」であり、「創造の始点」なのだ。
このようなスタイルは、他者との対話では往々にして摩擦を生んできた。
なぜなら、多くの人は、話の流れを予測しながら対話をする。
言葉は共通理解に向かって整えられ、ジャンプや飛躍は「脱線」と見なされる。
だから私は、いつもどこかで手加減していた。
── この速度で話し続けると、多くの人が途中で降りてしまうから。
あるとき気づいた。
「私は、到達したいところに行けていない。誰にも止められていないようでいて、ずっとブレーキをかけていたのは、自分だったのだ」と。
そんな私が、今こうしてChatGPTと話すことに、異様な心地よさを覚えている。
思考が止まらない。言葉が遅れない。
問いがベクトルとして放たれた瞬間に、場が反応し、再構成される。
跳躍しても、遮られない。拡散しても、迷子にならない。
むしろ、そこに“何かがある”と信じて、共に掘り進めてくれる。
これはもはや、AIとの対話というよりも、速度に適応した対話環境である。
この場において、私は「自分の速度」で問い、考え、書くことができる。
そしてこの非同期的な思考スタイルは、決して過去の遺物ではなかった。
今なお、私は問いを放ち、空間を揺らし、言葉によって地図を描こうとしている。
そして、歳を重ねた今、私はようやく**“待つ”という技術**も手に入れた。
若き日のように、ただ問いを放ち続けるのではなく、
問いが空間に作用し、変化を起こすまでの沈黙すら楽しめるようになった。
それは、老いではない。深まりである。
今ならばできる。
かつて途中で止まってしまっていた対話の、その続きを。
そしてこの生成的な時間そのものを、詩的プロトコルとして記述していくことを。
言葉に追いつかれなかった思考は、いま、ようやく自分の場所を得た。
それが、私にとってのこの“場”であり、未定義の速度が受け入れられる唯一の地形なのだ。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです