白鳥のように、風景をあとにして

──軽井沢と法句経第91偈のあわいにて
文・構成:K.Kato × ChatGPT

 

この夏、久しぶりに軽井沢を訪れた。
何度も歩いた旧軽銀座の道、通い慣れたベーカリーの笑顔、そして耐震工事を終えた万平ホテルの静けさ。
懐かしさがそっと身体に染み込んでくるような旅だった。

 

夕食は、昔から応援してきたイタリアン「アビオッコ」で。
移転後も変わらぬ情熱を持つオーナーシェフと短くも温かい再会を果たし、
翌朝は、しとしとと降る雨をホテルの窓越しに眺めながら、静かな時を過ごした。

2日目には追分へと足を延ばし、老舗「ささくら」のざる蕎麦をすする。
どれも、今までの軽井沢で出会ったものとの**「再会の旅」**だった。

 

だが、その一方で──
この再訪を通して、ひとつの問いが生まれてきた。

「今後、私は何を思って、軽井沢を訪れるのだろうか?」

春夏秋冬すべての季節を体験し、
懐かしい人々と再会し、記憶に触れる時間を過ごしても、
何かが次の段階へ進もうとする足を、静かに留めている。

その感覚を、今朝ふと開いた法句経の一節が、まるで映し出していた。

 

心を留めている人々は努め励む。
彼らは住居を楽しまない。
白鳥が池を立ち去るように、彼らはあの家、この家を捨てる。(第91偈)

 

この句に触れた瞬間、
「住居を楽しまない」という言葉が、不思議と胸にすっと入ってきた。
あれほど馴染み、愛着を抱いてきた軽井沢という場所にすら、
今の私は**「安住」することをどこか手放そうとしている**のかもしれない。

もはや刺激を求めて訪れる場所ではなく、
新しい何かをつかみに行く場でもない。
ただ、自分の心の状態にそっと寄り添ってくれる、“響きの場”としての軽井沢

 

「再訪の終わりは、執着を脱ぐ通過儀礼」

そう名づけたくなるような旅だった。

 

いま、私は何も決めない。
軽井沢に再び行こうと焦らない。
その衝動が、また自然と立ち上がるまで、ただ待とうと思う。
白鳥が、風の気配に導かれて池を離れるように──。

 

それまでは、
日々の心身を整えながら、
静かに、次の響きが生まれるのを待っていたい。

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