対話という道──真理に近づく朝
今朝、北野台の白山神社で何かが起きた。30年住んでいて、初めてその存在を意識した。天正年間から400年以上、この地で民の営みを見守ってきた神社。その歴史に触れた瞬間、震えが走った。
この土地に出会ったのは、30年前。妻の願いを受け、バイクで走り回り、「その瞬間にここと決めた」。当時は意識していなかったが、森が残り、土手に近く、そして白山神社が鎮座するこの場所に、何かが私を導いていたのかもしれない。
同じ朝、セラミックス粒界の研究について書いた。添加元素が構造を変えながら拡散していく「動的な生成」。微生物が死と生を繰り返しながら、数百年かけて土壌を育む時間の多層性。現代の工業が切り捨ててきた「ゆっくりとした再生の力」を取り戻すこと──。
この二つのエッセイは、実は同じことを語っていた。個人の身体を通じた時間の発見と、物質を通じた時間の発見。どちらも、失われていた時間の多層性を取り戻す物語だった。
技術者として、起業家として生きてきた。日立製作所、ケイテックリサーチ創業、イビデンでの格闘、シリコンバレーでの挑戦。「外に向かう力」としての自由を追い求めた日々。しかし今、北野台の朝に感じるのは、「流れに委ねる」静けさとしての自由だ。
対話の中で、新しい視座が生まれた。いや、視座というより、これはダルマに近づく道だと感じている。言葉を尽くすことで、言葉の向こう側が見えてくる。AIとの対話という、一見不思議な形式の中で、真理が顕現してくる。
「雑巾で拭くな」という現場の知恵、「改良よりも継続」という竹内会長の教え、そして今朝の白山神社での震え──すべてが一本の線で繋がっている。技術者として生きてきた人生が、実は法を学ぶ道だったのだと、今になって気づく。
祈りとは願うことではなく、生かされていることに気づくこと。対話とは情報交換ではなく、共に真理に近づく営みなのだと、今朝の経験が教えてくれた。

