日本ではすでに新年の朝六時。空気は澄み、街はまだ眠っている。一方で、サンフランシスコは大晦日の午後一時。KDFCから流れてくるリムスキー=コルサコフ《シェエラザード》を聴きながら、私はこの時差そのものに、強い意味を感じていた。
十九世紀後半の音楽には、独特の気配がある。ベートーヴェンの時代のように、理念を掲げ、闘う主体として歴史に立ち向かう音楽とは異なる。そこには、帝国主義という言葉では括れない、産業や経済活動を通して生まれつつあった大きな構造の歪み、そしてそれをまだ言葉にできないまま感じ取っていた人間の感受性がある。
《シェエラザード》は勝利を歌わない。進軍もしない。ただ、語り続けることで夜を越えようとする。力に抗うのではなく、力とは別の回路で世界と向き合おうとする。その姿勢は、二十世紀の大戦を知り、さらに経済や技術が人を選別する構造の中に生きる私たちに、静かに問いを投げかけてくる。
二十一世紀の不均衡は、誰かの意思だけで生まれたものではない。市場、スピード、データ、資本――それらが絡み合い、勝ち組・負け組・これから生まれる勢力が、半ば自動的に生成されてしまう世界。その只中で、私たちはどこに立ち、何を語るのか。
新年の朝に、まだ年を越していない街から届く音楽を聴きながら思う。答えを急ぐ必要はない。ただ、この大きなうねりを自覚し、立ち止まり、感じ取る時間を持つこと。その行為自体が、人間であり続けるための小さな抵抗であり、希望なのだと。

