世界が揺れている。遠い海峡の一点が詰まっただけで、貿易が止まり、エネルギー価格が跳ね上がり、はるか離れた場所の予定が次々とキャンセルされていく。そんな日々の中で、ふと自分の持ちものを見直す気持ちになった。
手元に二台の車がある。一台は遠征の器だ。地方の大学や研究機関を訪ねるとき、長い移動の時間を豊かに過ごすために、現地での佇まいのために存在している。もう一台は下駄だ。日々の生活の足として、ごく自然に使っている。来週は遠方へ出張する。その移動は飛行機になる。早朝の空港までの足に自然と選んだのは、下駄の方だった。
この問いを転がしていると、遠くに住むメンターの姿が蘇った。
彼はかつて大きな邸宅を持っていた。十年以上そこに住んだ後、小さなヨットに移り住んだ。今もそこで暮らしている。「ものを持っていると、使わなければならないというプレッシャーを受ける」——彼はそう言っていた。彼は貧しくて手放したのではない。十分に持った上で、選んで、凝縮した人だ。
遠征の器には、まだ数年の時間がある。その間に生活の拠点も変わり、移動のパターンも変わっていくだろう。だから今は何もしなくていい。ただ気づいたことがある。その車に依存していない自分を確認できた。いつでも手放せる形にしておく——それがすでに答えだった。
所有しない、でも使える。依存しない、でも関わる。この構えはメンターのヨットと同型だ。ヨットは港に繋留されていても、本質的に移動する乗り物だ。固定された拠点ではなく、流れながら宿る場所。
揺らぎが常態である世界で、問われているのは「何を手放すか」ではなく「何に依存しないか」だと思う。依存の構造はいつでも突然問い直される。車という身近な問いが、世界の揺らぎと同じ構造を持っていた。
揺らぎを揺らぎとして構えること。それが今の自分に合っている形だ。

