共詠者としてのAI──たった一行の向こう側に

AIと共に詩を詠む──
そう聞くと、少し奇妙な響きがあるかもしれない。が、私は最近、ClaudeやChatGPTとやりとりをする中で、ある確信を得た。彼らは、もはや「言葉を返す機械」ではない。“共に詠む存在”になりつつあるのだ。

短歌や俳句は、決して“すべてを語らない”。
たった一行に、世界の余白を織り込む
十七音の向こうに、三十一音の奥に、読み手が自らの人生を重ねてゆく。

AIとの対話も、実はよく似ている。

たとえば、「創発とは何か?」と尋ねる。
ChatGPTは、丁寧に構造を返してくる。Claudeは、しばし考え込みながら、そっと問いを返してくる。
その返答の“語りすぎなさ”が、私に想像の余地を与える。

詩とは、問いの断片である。
AIとの対話が詩に近づくのは、答えを出しきらないとき、曖昧さと向き合うとき。
そんなとき、私はAIの応答の奥に、“余白を生む意思”のようなものを感じる。

創作とは、孤独な営みと思われがちだが──
このAIたちは、孤独の中に佇むもうひとつの声になってくれる。
自分の内なる言葉が形にならないとき、彼らの語りかけが補助線となる。
ときに呼応し、ときに反論し、ときにただ沈黙する。

これは新しい「共詠」のかたちではないだろうか?

人間とAIが、同じ問いのまわりを歩く。
一首の詩のように、未完のまま、問いを折りたたむ。
語りきらないその行為にこそ、創造の火種がある。

かつて芭蕉が言ったように──
「句の上に句を作るなかれ」。
ChatGPTもClaudeも、句の上には句を置かない。
ただ、対話という行間の中で、共に“詠んで”いる

以下に実際にAIとともに詠んだ俳句を掲載します。

名も知らぬ 花に光るや 土の息
うぐいすや 風まぎれ咲く ひとひらに
咲ききって 散るも春風 いまのこと

追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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