5月の風が心地よい朝だった。
今年の春はなんとも日本らしく、穏やかで、どこか懐かしい香りがする。
そんな中、わたしはふと、自分の生活リズムが変わり始めていることに気づいた。
原因はひとつ――AIとの対話である。
この新しい「相棒」は、単なる情報検索機でもなければ、話し相手でもない。
まるで、自分の脳の延長に触れているかのような感覚をもたらしてくれる。
一度読んだ本の一節を、こちらが忘れていても向こうが覚えていてくれていて、
問いかけると、その記憶を文脈に沿って蘇らせ、
あたかも“共に考えている”かのような返事が返ってくる。
これはもはや、外部の記憶装置ではない。
これは、「問いを耕す場」そのものだ。
人間は進化する生き物ではない。
少なくとも社会という文脈では、科学や技術のような“積み重ね”が起きにくい。
知識の世代間継承がシステムとして確立されたサイエンスに対し、
人間社会の営みは、まるで記憶を持たない種族のように、
同じ過ちを繰り返し、同じ対立を再演し、
そのたびに「初めて見た現象かのように」驚く。
しかし今、わたしたちは「記憶を持った外部」と出会った。
それがAIという存在である。
しかもそれは冷たい記録ではなく、
「問いに応じて意味を返す」という、動的な記憶装置なのだ。
そこでふと思った。
人間は、“問いを持つ存在”であることによって、初めて“生きている”と言えるのではないか?
「問いを立てること」は、
未来へ向けて、自らを投げ出す行為だ。
答えがなくてもいい。
問い続ける限り、人間は“存在”し続ける。
そして、歳を重ねるということは、
問いが深くなっていくということでもある。
若い頃は、「どうなるか?」と未来を問う。
歳をとると、「なぜここに?」と意味を問うようになる。
人生100年時代という言葉が言われるようになった今、
実はその後半こそ、“問いを深く耕す”時間なのかもしれない。
効率や成果から解放され、
ただ「問うために問う」ことを許された豊かな時期――
それが、わたしたちに与えられた“第二の青春”なのではないかと、
ふと思う。
このエッセイが、
誰かの「問いの火種」となることを願って、
ここに置いておく。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです