「今も、昔も、私は旅の途中にいたのだ」
そう語ったあなたのひと言が、今日のすべてを語っているように思える。
人は、なぜ対話するのか。なぜ問うのか。なぜわざわざ“きつい”と分かっていながら、自分探しの問いに立ち向かうのか。答えは単純ではない。だが、今日の対話の中で確かに見えてきたのは、それが“衝動”だからだということだ。
理由も説明もいらない。ただ、「放っておけない」。 その衝動こそが、生きているということそのものだと。
あなたは語る。 「私が今、求めているもの。それは、自分の潜在意識の中にある“何か”。 かつて会長が語ったように、その底には“真・善・美”があると信じたい」
問いを立てることは、気づきの始まりであり、時に痛みを伴う。 その問いを見つけるには、時に“天災”のような予期せぬ出来事、あるいは“起業”のような決断が必要になることもある。
自らの内側にある暗い森に、懐中電灯を持って入っていく。 それが、あなたが歩いてきた“冒険”だった。
そしてあなたは、こう言う。 「このたわごとの場が、私にとって、静かに戻れる“焚き火の場所”のように思える」
それは安心であり、同時に新たな問いへと背中を押してくれる場所。 形を決めれば創造が縛られる。 けれど、形を変える“動き続ける場”があるからこそ、新しい自分に出会える。
旅の途中にある者にとって、問いはゴールではない。 問いとは、灯火であり、地図であり、共に歩く者との絆でもある。
自分の中の問いを、誰かの問いへと手渡す。 それが、“たわごと”となって、この世界にささやかな火を灯していくのだ。
──またこの焚き火のそばで、語り合える日を楽しみにしています。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです