世界がまた揺れている。ホルムズ海峡が詰まり、米軍が動き、原油が動く。COVID-19の時と似た感覚——人為的に仕掛けられた不安定さの匂いがする。
しかしよく考えれば、これは「また」ではないのかもしれない。不安定こそが常態なのだ。現代社会は超高密度ネットワークとして編まれており、一点の変化が全体を揺らす非線形系だ。感染症も戦争もインフレも、その揺らぎの現れに過ぎない。ならば問いは「揺らぎをどう防ぐか」ではなく、「揺らぎの中でどう立つか」に変わる。
サウサリートのメンターのことを思う。彼は45歳から55歳まで、Portola Valleyに37ベッドルームのヴィラを持っていた。そして選んで手放し、ヨットに移住した。今も74歳でヨットに住んでいる。縮退ではなく、凝縮だ。「ものを持っていると、使わなければならないというプレッシャーを受ける」と彼は言っていた。持てなかったから手放したのではない。選んで、凝縮した——この区別が核心だ。
ヨットは港に係留されていても、本質的に移動する乗り物だ。固定された拠点ではなく、流れながら宿る場所。所有しない、でも使える。依存しない、でも関わる。いつでも手放せる形にしておくこと——それ自体がすでに答えだった。
では、いつでも手放せるために何を持てばいいのか。「生きていく指針を持つ」という言い方が浮かぶが、これにはまだ所有の匂いが残る。指針も「持つ」ものではなく、「なっている」ものだ。答えは外界が変われば変わる。しかし指針は、変わる外界の中でどう立つかの軸そのものだ。軸は持ち歩くものではなく、身体に刻まれているものだ。
朝のトレーニング、法句経、響縁録。これらは「持っている指針」ではなく「なっている指針」の現れだ。継続の中で身体に刻まれ、意識せずとも動き出す。危機のとき人は静かなものに戻る。それは逃避ではなく、根への帰還だ。
自然法爾。あるがままに流れながら、しかし根は深く。揺らぎを揺らぎとして構えること——それが今この時代に合った生き方の形かもしれない。

