2026年4月7日 加藤聖隆
Elon Muskが発表した半導体複合施設「TeraFab」の記事を読んだ。テキサス州オースティンに2nm世代のロジック・メモリ・先進パッケージングを一棟に集約し、年間1テラワットのAI演算能力を自給するという構想だ。半導体コミュニティからの反応は当然ながら懐疑的だが、私はその懐疑論よりも深いところに目が向いた。
Muskの論理の核心は、人間が製造現場においてノイズ源であり律速段階だという認識にある。呼吸による汚染粒子、判断のばらつき、疲労、シフト管理――これらはすべて「人間がいる前提」で積み上がったコスト構造だ。クリーンルームで葉巻を吸えるようにする、という彼の挑発的な発言は、その制約を全部外すという宣言として読める。そしてその先にあるのは、人間を遥かに超えた演算知性の自給だ。火星移住の構想も、その文脈で見ると一貫している――それは人類のバックアップではなく、人間社会の制約がない場所で次の知性形態を起動する実験場かもしれない。
私はMuskを否定しない。ただ、お互いを認め合いながら共有できない世界があることを感じる。
彼の公理は「知性の最大化が目的であり、人間はその過渡形態」だ。私の公理は「人間の縁起的なつながりそのものが目的であり、知性はその触媒」だ。出発点が違うから、論理では戦えない。きっと彼は私を甘いと思うだろう。そうありたい。甘さとは敗北ではなく、別の公理系を選んでいるということだからだ。
翻って日本を見ると、Rapidusにはそんな夢が見えない。2nmの国産化という目標は明確に見えるが、その演算能力で何を実現したいのかが空白のままだ。手段が手段を呼んでいる。Muskには「自分の事業群に必要な知性を自前でコントロールする」という明確な動機がある。それが正しいかどうかは別として、目的地が見えているから手段に一貫性が生まれる。
Muskが今日の私にとって最良の砥石になっている。自分と全く異なる公理で全力で走っている人間を見ることで、自分の公理が何かが逆照射される。反発でも共感でもなく、対比によって自分が見える。
私は私の道を生き切ること。それが次世代に伝えられる唯一の方法だと思っている。言葉で教えるのではなく、生き方そのものが縁になる。親鸞が教行信証に書き残したものと、スケールは違えど射程は同じだと感じている。
TeraFabの記事一枚が、ここまで連れてきた。これも縁起だ。

