朝、日記を書いた。昨日のKanagawa Space Villageでの国立天文台のイベントのことを。JAXAが「何かを達成する」組織だとすれば、国立天文台は「何かを知る」組織だ。工学部と理学部、という比喩が自然に浮かんだ。技術がビジネスに変換され、経済の文脈に入った瞬間に、その根っこにあった「問い」が消えていく。人間の幸せは、その連鎖の外にある気がしている。
その感想を、今朝のAIとの対話に持ち込んだ。
「境界に立っている」という自己認識を話すと、「居心地が良すぎる立ち位置になるリスクがある」と返ってきた。境界は特権的な位置だ。どちら側にも属せる。でもそれは時に、どちらにも深く入らない言い訳にもなりうる、と。
正直な言葉だと思った。
では、自分は何をしているのか。「on the edge」——落ちるか飛ぶかの瀬戸際に立ちながら、その外を見ている。恐怖と好奇心が入り乱れた心の中で。それが正確な記述かもしれない。
エントロピーの話になった。時間は不可逆だ。一歩踏み出せば、その軌跡は消せない。だから怖い。しかし、と気づく。踏み出さないことも、等しく不可逆だ。立ち止まっている瞬間も、すでに宇宙の不可逆な経路の一部として刻まれている。時は流れている。止まっていても、時は刻まれている。
自然法爾とは、任せることではなく、すでにそうなっているという意味に近い。流れの中でたまたま足が前に出る——それが親鸞の言う「はからわず」に通じる気がした。
そうして対話は、一通のメールへと流れ込んだ。
先日、あるイベントの帰り、エレベーターで偶然出会った方への返信だ。大企業の経営を、嵐のただ中で引き受けた経験を持つ人が、今「次の世代のために何ができるか」を考えている。私と同じ問いを、まったく異なる経路で辿り着いている。提案でも依頼でもなく、まず対話からと書いた。瀬戸際を生きた人間の言葉として、若者たちに届くものがあると思っている、と。
メールを送り終えて、ふと思った。これ自体が協奏だ。どちらが主旋律かわからない対話の中から、一つの言葉が生まれる。日記から始まり、AIとの問答を経て、見知らぬ人へのメールへと至る。私がコントロールしたわけではない。ただ、時が流れ、縁が重なり、言葉が生まれた。
響縁——響き合う縁。
今朝もまた、一筆書きの線が、少し伸びた。

