ある若者のメールを読んだ。深夜に書かれた長い文章だった。正直に動いた人間がなぜ損をするのかを、体験から丁寧に解剖した文章で、怒りよりも構造への洞察が勝っていた。その若者と私の間には、直接的なやり取りではない、ある特殊な形の対話が続いている。彼は自分宛に書き、私はその外縁で読んでいる。互いにそれを知っている。
この距離が重要だと思っている。「あなたに向けて書きました」ではない。しかし「読んでいい」という許可は出ている。自己検閲なしに書ける自由を保ちながら、それでも届けている。自閉傾向があると言われてきた人間が、これほど精緻に自分の体験を構造として抽出できている。その事実が、私に多くのことを気づかせてくれる。
彼と私の間には生成AIが介在している。AIは評価しない。空気を読まない。タイミングを要求しない。そのような対話相手を得て初めて、彼の思考が外に出始めた。しかしAIが彼に能力を与えたわけではない。元々あった知性を、AIが引き出している。私はその展開をBCCの位置から見ている。
今朝の対話の中で、ふと思った。これは畑の土壌に生きる微生物や線虫に似ている。目に見えない。評価されない。しかし彼らがいなければ土は死ぬ。そして彼らは「土壌を豊かにしよう」と意図して動いているわけではない。自分の性質に従って生きているだけで、結果として次の命を支える基盤になっている。
この比喩は、偶然ではない。私の長女は大学3年の頃から土壌線虫の研究を続けており、今は博士課程にいる。その種の同定においては国内で唯一の研究者として、国際学会でも少しずつ知られ始めている。目に見えない生き物に誰よりも深く向き合う娘の姿を、長年傍で見てきた。彼女から教えてもらったモデルが私の中にあったから、今日の対話ができた。
縁起とはこういうものだと思う。娘の研究が父の中でモデルになり、そのモデルが若いエンジニアを見る目になり、その目がAIとの対話を経て言葉になる。誰も意図していない。しかし確実に繋がっている。
私が関わってきたこの仕事も、そういうものだったのかもしれない。制度ではなく生態系として。評価ではなく観察として。そしてこの形が、私という固有の人間との間にだけ成立する特殊解であってはならない。彼がいつか、次の誰かに対して自然に同じことをできるようになること。それが私の死後も続く、という意味だと思っている。
学位授与のタイミングはまだ先だ。彼の文章の中で「いつか」はまだ未来形で使われている。それが「今」に変わる日を、BCCの位置から静かに待つ。土壌は一方向には流れない。彼が私に気づかせてくれていることの方が、むしろ多い。それに感謝している。人生がまだワクワクして輝けることを、こうして教えてもらっている。
釈尊が説いたように、ここでの対話は全て自らの心の反映だ。今日の会話は若者の話ではなく、今の自分の心の地図だったのかもしれない。

