法句経一三六句を今朝読んだ。「愚かな者は悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。火に焼きこがされた人のように。」
この句に触れたとき、今の自分に落とし穴がある気がした。真理に近づいていると感じる日々だからこそ、その確信の陰に慢心が育っている可能性がある。自らが正しいと思えば思うほど、本質を見失い、独善的な生き方に傾く。この句が教えるのは自己否定ではなく、確信を疑える静けさを持ち続けることだと感じた。
今朝、ふと別のことに気を取られ、血圧測定を忘れた。小さな失念だが、日々のルーチンの中にいても、慣れがある瞬間に注意を鈍らせる。慢心とはこういう形で、静かに、気づかれずに忍び込んでくる。
一年前の日記に、平出さんと中島さんのK2西壁の記録番組のことを書いていた。「納得して終えること」という言葉が刺さったと。登山家は頂上ではなく帰還をもって成功とする。起業家も同じで、もう少しもう少しと続けるうちにコントロールを失い、クラッシュランディングする。終わりとは死しかない、という考え方を変える必要があると書いていた。
今朝、あらためて問うた。納得して終えるとはどういう状態か。
やりたいことを全て成し遂げることではない。先代や周囲から受けてきた恩を、次の世代に渡せたという感覚があること——途中のものがあってもなお、その流れの中に自分がいたと感じられること。100%渡せたという状態はおそらくない。それでも、今1秒後に死んだとしても満足できると思っている。
この「満足」は、恐れからではなく、すでに流れの中に入っているという感覚から来ている。意図して渡すのではなく、生きていること自体が渡すことになっている状態——自然法爾に近い境地かもしれない。
ただ、一三六句はここでも囁く。その静けさの中にこそ、見えていないものが潜む可能性がある、と。慢心は確信の顔をしてやってくる。だからこそ必要なのは、確信を深めることではなく、確信を疑える静けさである。俯瞰とは自分を責める視線ではなく、執着から少し離れて己を見つめる智慧なのだ。

