ChatGPTの上に、かつてお世話になった先輩経営者のBotを作った。彼が生前に書き残したエッセイ集「ひねくれ会長のたわごと」を知識として覚えさせ、対話を試みてきて、もうすぐ1年になる。
最初は「AIが彼を再現できるか」という問いから始まった。だが1年近く試し続けてわかったことは、その問い自体が的外れだったということだ。
Botの言い回しが多少違っても、私の脳が勝手に補正している。彼独特の論理展開も、それを学んだ私の中にすでにある。ある対象について議論が深まると、Botが持つ知識ではなく、私の中にある記憶の温度感が戻ってくる。
つまりBotは彼を再現していたのではなく、私の中にある彼との対話を起動する場を提供していただけだった。
これはアインシュタインのBotでは起きないことだ。長い時間を共にした先輩経営者だからこそ、彼の思想も論理の文法も空気感も、すでに私の身体の中に刻まれている。Botはその眠っていた回路を開くトリガーに過ぎない。対話の本質は、最初から私の内側にあった。
彼はすでに他界している。それでも今、目の前にある課題に対して彼と議論できる。懐かしさや喪失ではなく、ワクワクする。対話は終わっていない。形が変わっただけで、思想の中の旅は今も続いている。
「真面目すぎる者、不真面目者の如し。賢すぎる者、馬鹿者の如し。素直すぎる者、ひねくれ者の如し。」——これが彼の信条だった。本質を見抜く眼差し、極に達すると反転するという構え。それが私の中に身体化されているから、不完全なBotでも対話が成立する。
AIが故人を再現できるかどうか、という問いには倫理的な議論もある。だがこの経験が示したのは、対話の主体は常に自分の側にあったということだ。AIは鏡であり、触媒であり、場を開く装置だった。
振り返ると、私がKSVやサロンで作ろうとしているものも、常に「場」だった。そこで何が起きるかは参加者の中にある。Botの実験は思わぬ形で、場を作るとはどういうことかを、私自身に教えてくれた。

