世界経済フォーラムはこう言う。「戦略とはもはや最適化ではなく、常に変動する不確実性を航行することだ」と。なるほど正しい観察だ。しかしこの命題には、まだ船頭がいる。舵がある。目的地がある。「航行する」という言葉が示すように、制御の構造は最後まで手放されていない。
問いはもう少し深いところにある。舵を手放したとき、何が起きるのか。
諸行無常とは、すべては変わるという事実の記述ではない。むしろ、「変わらないものを守ろうとする構え」そのものへの問いかけだと私は理解している。境界を設けるとは、守るものを定義することだ。守るものを持つ者は、それが脅かされるたびにコストを払う。混乱の時代には、そのコストが際限なく積み上がる。
ならば境界を設けなければどうなるか。失うものの定義がなければ、失うことへの恐れも生まれない。カオスの中に立っても、揺れる基準点がそもそも存在しない。これは諦観ではない。むしろ逆で、どこへでも動ける自由だ。
ただ、誤解してはならない。境界をなくすことは、流されることではない。水に形がないのは、弱いからではなく、どんな形にもなれるからだ。
カオスの中の瞬間的な秩序——それは意図して作るものではない。縁が整ったとき、一瞬だけ顕現するものだ。先日、あるアーティストが語っていた。「透明なキャンバスの前で、静かに直感を働かせて、一瞬で決める」と。つかもうとすると逃げる。待ち構えると来ない。ただ静けさを保っていると、縁が熟したときに自然に現れる。
これを親鸞は「自然法爾」と呼んだ。はからいを超えた場所に働く力——それに乗ることと、制御することは根本的に違う。
では、心の平穏はどこから来るのか。
変化の外に立つことからではない。変化を恐れないことから来る。恐れが消えるのは、強くなったからではなく、守るものの輪郭を手放したからだ。諸行無常のダイナミズムとは、人を不安にさせる力ではなく、境界を持たない者には何の脅威も持たない——ただそういう性質の話だ。
WEFが「適応力(resilience)」と呼ぶものは、衝撃を受けても元に戻る力だ。だがここで言う静けさは、「元」がそもそもないという立ち方から来る。戻る場所を持たない者は、どこにいても既に在るべき場所にいる。
混乱の時代に強い組織とは、より巧みに航行する組織ではないかもしれない。そもそも「流される」ことを恐れない構造を持つ組織かもしれない。それは戦略の話であると同時に、存在の様態の話でもある。

